劣等感にやられたら

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面接のよくある質問で長所短所を聞かれると思う。最近も再就職活動に向けてちょっと考える機会があったのだけど、案の定そんなもんはわからんという結論だった。そもそも長いだとか短いだとかは相対的なものなのだから自分1人をおいて長いか短いか聞かれてもわからない。世間一般とくらべてと言われても人が属する集団にそれは依存しすぎていてそれこそ千差万別すぎる。下手したら想像上の世間一般と比べないといけないかもしれない。フィクションとノンフィクションの区別は大事だ。学生時代に耳をすませばみたいな恋愛ができないことに悲しみを抱いたのは無駄だった。あれはフィクションだ。

だけど、個対個の関係であれば優劣はわかる。僕は就職したけど、今はまだ新卒より使えない。昔だったら劣等感からサブカルに逃げるのだけど、僕もいい加減大人になったからもう大丈夫だ。人の価値が業務上のひとつの得手不得手だけで決まるわけではないということを知っている。褒められたり貶されたりしてもそれはたくさんあるパラメーターの中のひとつが誰か特定の1人より優れていたか劣っていたというだけでしかない。仕事では算数の能力が求められて、それについて罵倒されても国語ができるあなたは最高だ。それに実際はもっと複雑で、特定の条件下で発動する能力もある。実際に僕は特定の条件下だととても面白い。普段は面白い。ごめん、ちょっと盛った。まぁ、各々のパラメーターは無数に存在するということだ。劣等感を感じてもただ無数のうちのただ1つの項目でのことだけと思えばいいこともある。他でカバーすればいい。『鈴木先生』で鈴木先生は生徒にそう説いていた。ハングリー精神で負けるもんかと頑張るのが結果的によかったということもある。そもそもすべてがオンリーワンで比べるこの自体おかしいということもある。だけど、いまは劣等感から参ってしまったときのことを書いてる。たくさんのパラメーターから勝ってるところはきっとある。だから、無価値ではない。

 

 

無価値ではないといったけど、実際はパラメーターの差異でしかない。そこにどう意味付けするのかは人それぞれだ。だから、自分がめっちゃいいと思っててもあまり評価されないこともあるし、くそだと思ってることが評価されることもある。確固たる信念をもっていて自分が納得してやっていけるのならばそれでいいけども、他人から評価されてちやほやされたいのなら自分の持ってるソレを他人がどう評価するのか意識するのは大切だ。思いの外世界は多様性がある。この前クアラルンプールにいったら僕でもモテた。世界に70億人もいたらどこかしらに需要はあるようだ。別に不得意なものを頑張って得意にするとか圧倒的成長のために頑張るのがだるかったら今あるもので、それを評価してくれる場所にいけばいい。ちきりんは『マーケット感覚をみにつけよう』でそんなことを言ってた。昔の中国人も”鶏鳴狗盗”という四文字熟語を残してる。

 

自分の各項目がわかってくるとその複雑な条件式に合致する人間はさすがに70億人いても自分以外にいないように思われる。だから、それはしなやかな自我にも結びついていくように思う。劣等感で自己否定してる人がいたらこのようなことを言いたいなと思う。